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『アナキズムFAQ』読解 第2回「A.1 アナキズムとは何か?」

さて、誰も読んでないかも知れませんが :lol: 、アナキズムを巡る旅路の第2回です。

が、正直、今回の内容はワタシの政治信条とは微妙なズレが多かった気がします。

とはいえ、まずは主張を読んで、理解しなければ、反論も何も始まりません。ということで、「A.1 アナキズムとは何か?」を読んでみました。

 アナーキーという言葉はギリシャ語に由来し、本質的には「支配者がいない」ことを意味する。アナキストは、あらゆる政府形態や強制的権力、あらゆるヒエラルキーや支配の形態を拒絶する人々である。従って、メキシコのアナキスト、フローレス=メーゴンが、国家・資本・教会の「邪悪な三位一体」と呼んだものに反対しているのである。だから、アナキストは、資本主義と国家に反対するだけでなく、あらゆる宗教権力形態にも反対なのである。しかし、アナキストは同時に、様々な手段を使って、アナーキーの状態を確立したりもたらそうとしたりしている。アナーキーの状態とは、抑圧的諸制度のない分権型社会、自発的結びつきの連合を通じて組織された社会なのである。[“Anthropology and Anarchism,” pp. 35-41, Anarchy: A Journal of Desire Armed, no. 45, p. 38]

ここで「教会」(宗教)が入ってくる事に、まず違和感を感じた貴方。そう、あなたは「日本人」です(笑)。ここで触れられているのは、間違いなく(カトリック、各正教、プロテスタントを問わず)キリスト教、あるいはユダヤ教のような「一神教」を指すものと思われます。

亡くなられた小室直樹先生が「『宗教』を持たない限り、日本人は『憲法』を書けない」と喝破されてました。その理由についてはここでは省きますが、今回、後に触れる「抑圧されているが故の自由への希求」に関わるかも知れませんし、あるいは「神と向かい合う個人」としての自省的態度を持ち得ない、という事もあるかも知れません。

 アナーキーはカオスを意味するものではないし、アナキストはカオスや無秩序を希求しているのではない、ということをはっきり言っておかなければならない。そうではなく、私たちは、個人の自由と、自発的な協力に基づく社会を作りたいと考えている。言い替えれば、権力からのトップダウンによって負わされる無秩序ではなく、ボトムアップによる秩序を求めているのである。

 よって、アナキズムは、アナーキー、つまり「支配者がない」という原則に基づいた社会の建設を提唱する政治思想なのである。そのため、『社会主義者と同じように、アナキストも次のように考える。土地・資本・機械の私的所有の時代は終わった。私的所有は消え去る運命にある。生産に必要な手段は社会の共有財産となり、生産者の手によって運用されなければならない。政府の機能は必要最小限に縮小するのが、社会の政治組織として望ましい在り方である。社会の最終目的は、政府の機能をゼロにもっていくこと、すなわち、政府のない社会、アナーキーまでもっていくことである。』[Peter Kropotokin, 前掲書, p.46]
 したがって、アナキズムはポジティブでもあり、ネガティブでもあるのだ。それは、現在の社会を分析・批判すると同時に、新しい社会のヴィジョン、現在の社会が否定している人間の欲求を最大限保証する社会ヴィジョンの可能性を示しているのである。こうした欲求とは、人間にとって最も基本的な自由・平等・連帯であるが、これらについてはセクションA.2で論じる。
 アナキズムは批判的な分析を希望へと結びつける。バクーニンは「破壊への衝動は創造への衝動である」と指摘している。今の社会の悪い点を理解せずに、より良い社会の建設は出来ないのだ。

「今の社会の悪い点を理解せずに、より良い社会の建設は出来ないのだ。」というのは、全くその通り。誰もが認めることでしょう。

ただ、ワタシには一抹の不安が残ります。それは、「確かに前の社会は悪い点だらけだった。だが、かくかくしかじかの機能を有していた。この機能を失って、我々は悪い意味での『アナーキー』(カオス)に陥った」、ッてな事にならないように、悪いなりに、どのように社会を回していたのか、しっかり見極めておく必要があるのではないかと思います。

これはワタシ達にとって「他人事」ではなく、某「自民党をぶっ壊す」と言った党首がホントにぶっ壊してしまった時、目撃されたはずです。また、自民から民主への政権交代でも目撃されたはずです。

次ぎに、「生産に必要な手段は社会の共有財産となり、生産者の手によって運用されなければならない」という部分についてですが。

今のあまりに複雑化した社会で、「国家」のレベルでこれを成し遂げるのは、まず無理でしょう。あくまで「アナキズム」は「ボトムアップ」でなければならない。そう思います。

ところで、長くなるので引用は避けますが、「A.1.3 アナキズムはなぜリバータリアン社会主義とも呼ばれるのか?」の中で、面白い指摘がありました。

曰く、「リバータリアン社会主義」という言葉は、アナキスト達が19世紀から使ってきた言葉なのに、最近アメリカで台頭してきた「リバタリアン党」が、「アナキストは我々の『リバタリアン』を盗んだのだ」と主張している点。

こういう「剽窃」は社会思想ではよくある話しで、例えば「宗教的原理主義」とは元々はアメリカ等で見られる「キリスト教原理主義者」を指す言葉だったのが、いつの間にか「イスラム教原理主義者」を指すようになりましたね。

まぁ、どちらにしてもワタシは「原理主義者」はおもしろみがないので嫌いです :-P

 社会的アナキストと個人主義的アナキストでは、多くの問題で意見を異にしている。たとえば、自由市場(free market)が、自由(lieberty)を最大にする最高の手段なのかどうか、等だ。しかし、資本主義に反対であること、アナキストの社会は、賃金労働ではなく協同労働(associated labour)に基づかなければならないことの二点では、一致している。協同労働だけが、労働時間中の個人に対する圧力や外部意志の力を減らす。そのような労働の自主管理こそが、本当の社会主義の理想の姿なのである。この観点はジョセフ=ラバディが次のように論じていたときにも見ることが出来る。労働組合は『組織を作ることで自由を獲得する良い例である。』そして、『組合無しには、労働者は、組合があるときよりも遙かに雇い主の奴隷になるのである。』[Different Phases of the Labour Question]

……まあ仰ることは分かりますよ。ええ。

実はここがワタシが最も違和感を覚えた点です。これも「日本的」だからかも知れませんが、日本の労働組合の体たらくを見ていると、「労働組合こそ、間違った権力の行使者」ではないかと常々感じています。

末端の組合員を顧みず、非・組合員の派遣労働者に対する視線は、いったい何なのだろう。これこそ「ヒエラルキー」ではないのか。あまつさえ、より上位の「ヒエラルキー」である国会に、自分達の議員を送り込もうと躍起になる。そりゃ、組織率も下がる、というものですね。

まだ言及したい部分はあるのですが、長くなりすぎるようなのでこの辺で(笑)。

今回、読んでみてあらためて思ったのは、やはり「ヒエラルキー」への闘争、という枠組みは、古いのではないかということでした。「ヒエラルキーへの闘争」が、大都市に飲み込まれて薄れ行く事は、部落解放運動について丹念に描き出した『近代の奈落』(宮崎学著 幻冬舎アウトロー文庫)が良い参考書となるでしょう。

それと、やはり、欧米と日本の「文脈」、つまり歴史的経緯や文化などの違いですね。

これらについては、再度触れることがあるかと思います。

最後に。次回は「A.2 アナキズムは何を主張しているのか?」の前半(? かなり長いので、何回に分けるかまだ決めてません)をお送りします。


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