え~一週間サボった上に、連休終日に書いてます
。
いやね、実はポメラを買ったんですよ。殆ど衝動買いで(笑)。
で、「ポメラで Blog 書くぞ~」と思って設定を調整したり、引用する『アナキズムFAQ』のテキストを流し込んだりしているうちに、先週末は終わり、で、いざ Blog をポメラで書こうと思うと、中々時間が取れなかったり。今週末は何かと忙しくしているうちに過ぎてしまい、こんな状態となりました。
ちなみに、このエントリーはポメラで書いてません(爆)。ポメラは確かに長文向きだけど、切ったり貼ったりしながら文章を書くには、チョッとコツがいるみたいです。
とそんな訳で。今日のお題ですが、
「アナキストはテロを支持するのか?」
「アナキストの倫理観はどのようなものか?」
「何故、大部分のアナキストは無神論者なのか?」
の三本です。これで長かったセクション A.2 ともお別れです(笑)。
「アナキストはテロを支持するのか?」
支持しない。それには三つ理由がある。
まず、テロとは、何の罪もない人々を殺す標的にしたり、それを憂慮したりしないことを意味している。アナーキーが存在する為には人民大衆がアナーキーを作り出さねばならない。他人を爆破することで自分の考えを認めさせることなどできない。第二に、アナキズムは自己解放に関するものだということである。社会関係を爆破することなどできない。ごく一部のエリートが大多数のために支配者に対して破壊行動をしたところで、自由は創造できない。単純に述べてしまえば『数世紀に渡る歴史に基づいた構造を、数キロの爆薬で破壊することなどできないのだ。』[Martin A. Millar, Kropotkin, p. 174で引用されているクロポトキンの言葉] 民衆が支配者を必要だと感じている限り、ヒエラルキーは存在する(詳細はセクションA.2.14を参照)。前にも強調したが、自由を与えることなどできない。自由は勝ち取るのである。第三に、アナキズムは自由を目指している、ということである。バクーニンは次のように述べている。『人間の解放を求めて革命が実行されているときには、人間の生命と自由とが尊重されねばならない。』[K.J. Kenafick, Michael Bakunin and Karl Marx, p. 125で引用] アナキストの考えからすれば、手段が目的を決定する。テロは本来、個人の生命と自由を侵害する。従って、アナキズム社会を構築するために使うことなど出来ないのである。
「他人を爆破することで自分の考えを認めさせることなどできない」、まあ当たり前の話ですね。大衆運動であるはずのアナキストが、大衆を敵に回すのは得策でないことは、火を見るより明らかでしょう。
この引用の後、延々とメディアや国家が「アナキスト」=「テロリスト」の構図を演出しようとしたか、実例が続いてます。興味がある方は直接『アナキズムFAQ』を参照して下さい。
だからといって、アナキストが暴力行為を行ったことはない、という意味ではない。行ったことはある(他の政治運動や宗教運動のメンバー同様に)。テロとアナキズムが関連付けられている主な理由は、アナキスト運動で「行動によるプロパガンダ」時代があったためである。
当時(大体1880年から1900年まで)、少数のアナキストが頻繁に支配階級メンバー(皇族や政治家など)を暗殺していた。さらに悪いことに、この時期に標的になったのは、ブルジョア階級メンバーが足繁く通っていた劇場や小売店だった。この行為が「行動によるプロパガンダ」と名付けられた。アナキストは、ロシアのポピュリスト(ナロードニキ)が1881年にアレクサンドル二世を暗殺したことに刺激されてこの戦術を支持するようになった(「自由 Freiheit」誌において、圧制者の暗殺と大逆を賞賛したヨハン=モストの有名な論説「遂に! At Last!」はこの出来事に刺激されていた)。だが、この戦術をアナキストが支持したのには、もっと深い理由があった。まず第一に、労働者階級人民に対して向けられた弾圧行為の復讐のためであった。そして第二に、抑圧者を倒すことは可能だと示すことで、民衆の叛乱を促す一つの手段だと考えられていたのである。
自分達が行った「暴力行為」をきちんと総括しているように読めますが、「抑圧者を倒すことは可能だと示すことで、民衆の叛乱を促す一つの手段だと考えられていた」というのはともかく、「労働者階級人民に対して向けられた弾圧行為の復讐のため」というのは、ワタシは少なからず受け入れがたいですね。
確かに「労働者階級人民」が受けた「弾圧行為」は凄惨を極めたものでしょう。しかし、「復讐」してみても、「ヒエラルキー」のアタマが入れ替わり、その先に待ってるのは更なる「弾圧行為」なんではないでしょうか。
大部分のアナキストは行動によるプロパガンダには戦術上反対しているが、それをテロだと考えていたり、いかなる状況下でも暗殺を禁止しようと考えている者はほとんどいない。戦争中にそこに敵が一人いる可能性があるという理由で一つの村を爆撃することは、テロである。しかし、多くの人を殺している独裁者や抑圧国家の長を暗殺することは、良くて自衛、悪くても復讐である。アナキストが以前から指摘して来たように、テロが「何の罪もない人々を殺すこと」を意味するならば、史上最大のテロリストは国家なのだ(この惑星で手に入れることのできる最大の爆弾など大量破壊兵器を持っているのも国家である)。
「テロ」、あるいは「テロリズム」というのは意外と定義が難しく、曖昧模糊としたものだとワタシは常々思っています。
アメリカがブッシュ政権時代に推し進めた「対テロ戦争」なんかは、まさしく「史上最大のテロリストは国家」である事を示していると思ってますが、「何の罪もない人々を殺すこと」とは言っても、実際に暴力を加える人々(それは「軍隊」であったり、「警察官」であったり、「獄吏」であったり)に対して反乱を起こし、彼らを殺してしまうのは「テロ」なのか。開放運動なのか。「テロリスト」に言い分があるならば、(それが受け入れられるものかは別にして)弾圧を加える側の人々にも言い分はあるのではないか。
そういう事を考え出すと、何が「テロ」であるのかどうか、分からなくなってきます。
「多くの人を殺している独裁者や抑圧国家の長を暗殺することは、良くて自衛、悪くても復讐である。」、確かにそうかもしれません。しかし。リビア等の現状を見れば、あるいはイラクの現状を見れば、独裁者や抑圧国家の長を殺したとしても、後に来るのはカオスであり、それは大衆にとってより悪い状態であるのかも知れません。
「アナキストの倫理観はどのようなものか?」
アナキストの倫理観はそれを主張する個々人によって非常に異なっている。だが、誰もが一つの共通の信念を共有している。それは、個人が自分の中で自分の倫理感覚を発達させるべきだ、ということである。すべてのアナキストは、マックス=シュチルナーの言葉、個人は既存道徳の制約から自由であるべきだし、そうした道徳に対して疑問を持つべきだ、に同意する。『ある事柄が自分にとって正しいことなのかどうかを決めるのは私だ。自分の外に正しいことなどありはしないのだ。』[The Ego and Its Own, p. 189]
「自分の外に正しいことなどありはしないのだ。」これはその通りだと思いますが、そのコインの裏側には「自分の倫理観に責任が持てること」が隠れていると思います。でなければ、ホッブスの『リバイアサン』で言うところの「万人の万人に対する闘争」状態に陥りますね。
その事を書いてるのか、
しかし、シュチルナーほどまでに、いかなる社会的倫理概念をも拒否しているアナキストは数少ない(こうは言っても、シュチルナーは、エゴイスティックなものではあるが、いくつかの普遍的概念に価値を置いている)。こうした極端な道徳相対主義は、大部分のアナキストにとって、道徳絶対主義とほぼ同じぐらい悪しきものなのである(道徳相対主義とは、一個人に適しているかどうかということを越えて良いとか悪いとかということはない、というものの見方であり、道徳絶対主義とは、個人がどう考えようと良いことは良く悪いものは悪いという見解である)。
近代社会は過剰な「エゴイズム」つまり道徳相対主義のために崩壊しつつある、と主張されることが多い。これは間違いである。道徳相対主義が広がる限り、それは様々なモラリストや真理の信奉者どもが社会に要求している道徳絶対主義より一歩進んでいることになる。なぜなら、道徳相対主義それ自体は個々人の理性という考えに、貧弱ではあれ、基づいているからである。しかし、道徳相対主義は倫理の存在(望ましさ)を否定しているがために、その反抗対象の単なる鏡面映像でしかない。どちらの立場を取るにせよ、個人を力付けることもなければ、解放することもない。
の部分ではないかと思いました。でも、「道徳相対主義」にも「道徳絶対主義」にも偏らない道、というのは非常に細くて険しいのではないでしょうか。
言い換えれば、生がアナキズム倫理の基礎である。本質的に(アナキストによればだが)、ある人の倫理見解は以下の三つの基本的源泉から導き出される。
(一)その人が生活している社会から。クロポトキンが指摘しているように『人間の道徳概念は、ある時点・ある場所で前提となっていた社会生活の形態に完全に依存する。このこと(社会生活)は、その時代の人間の道徳概念と道徳教育に示されている。』[前掲書, p. 315] 言い換えれば、人生経験と生活経験からである。
(二)個人による、上記したような社会の倫理基準の批判的評価から。これがエーリッヒ=フロムの主張の中核である。『人間は自身の責任を受け入れねばならない。そして、自分の人生に意味を与えることができるようになるのは自分の力を行使したときだけだ、という事実を受け入れなければならない。自分の力を開示し、生産的に生きることで自身の人生に自分で意味を与えなければ、人生に意味などない。』[Man for Himself, p. 45] 言い換えれば、個々人の思考と発達からなのである。
(三)感情移入から。『道徳的情緒の真の起源は、単に、同情という感情にある。』[“Anarchist Morality”, Anarchism, p. 94] 言い換えれば、経験や考えを他者と共感し、共有する個人の能力からである。
(一)の部分は、以前にも書いた「教育による埋め込み」も含まれるかと思います。(二)の部分は、大いに受け入れられますが、これが出来る人というのは、やはり極一部に限られる気がします。(三)について、この引用文のすぐ後に、「この最後の要因は、倫理感覚の発達にとって非常に重要である。」と指摘されていますが、どれだけ素晴らしい「倫理観」を自分の内に育て上げようとも、他者と共有されなければ意味がない、と考えれば、確かに重要な要素だと思います。
つまり、
批評精神に基づいた感情移入の感覚が社会倫理の根本的基盤である。「あるべき姿」が真理の倫理的基準であり、客観的な「現在の姿」が妥当かどうかの倫理基準と考えられる。従って、自然の中に倫理の根源を見出しながらも、アナキストは倫理を根本的に人間の考えだと見なす。個々人が創造し、社会的生活とコミュニティが一般化した、生・思考・進化の産物だと見なすのである。
ということではないでしょうか。
「何故、大部分のアナキストは無神論者なのか?」
何故、それ程までに多くのアナキストは無神論を受け入れているのだろうか?最も単純な答えは次のようなものだ。無神論はアナキズム思想の論理を拡大したものであるが故に、大部分のアナキストは無神論者なのである。アナキズムが不当な権威の拒絶だとすれば、それはいわゆる最高権威・神の拒絶だということになる。アナキズムが根差しているのは、理性・論理・科学的思考であって、宗教的思考ではない。アナキストは、信奉者ではなく、懐疑者になることが多い。
前にも書いた通り、ここで前提となっている「宗教」とは、一神教の事だと思います。
「アナキズムが不当な権威の拒絶だとすれば、それはいわゆる最高権威・神の拒絶だということになる。」というのも、どう考えても「一神教」の構図ですね。
ワタシは仏教、特に原始仏教はかなり「アナーキー」だと考えています。
と、「神」を拒絶した上で、このような事も書かれています。
また、アナキストが宗教に反対だからといって、宗教人が社会を改良すべく社会闘争に参画しないということを意味しているわけではない。全く違う。宗教人は、教会ヒエラルキーのメンバーを含めて、1960年代の米国市民権運動で重要な役割を演じた。メキシコ革命中のサパティスタ農民軍内部には宗教的信念があったが、だからといって、アナキストが参加しないわけではなかった(事実、農民軍はアナキスト闘士リカルド=フロレス=マゴンの思想に強く影響されていたのだった)。宗教の二重性質こそが、多くの民衆運動と民衆蜂起(特に農民の)とが宗教のレトリックを使っていた理由を説明してくれる。自分達の信念の良い側面を守り続けようとすることが、地上の不公正と闘うことを決意させたのである。アナキストにとって大切なことは、不公正と闘おうとしているかどうかであって、人が神を信じているかどうかではない。
この辺が頭の固い「共産党」と「アナキスト」の違いではないかと、思ったりもします。
というわけで、長かったセクション「A.2 アナキズムは何を主張しているのか?」はこれで終了です。
次回からは「A.3 アナキズムにはどの様な種類があるのか?」に入ります。
はぁ~。先はまだまだ長いや(笑)。
