日々の偏ったニュースに思うこと

狩り出された……ならぬ「釣られた」のかしら(笑)?

え?今日は Blog ぶっ壊れかけで疲れてもいることですし、とある方の Blog へのコメントがなんだか無駄に長文になっちゃったので、こちらでエントリーを立ててコメント替わりにしちゃいます :-?

2/21 水・晴れ:言葉狩りをしてみよう (月日の鏡)

今は昔(になっちゃうのかな。もう10年以上前になります)、筒井康隆さんが「断筆宣言」をしたことがありました。

筒井さんによれば日本てんかん協会との話し合いは、最終的には至極冷静におちついたそうで、「断筆」の「主敵」は各出版社だったとの事。

ワタシも基本的には「差別語かどうかは、その文脈で決まる」と考えています。「文脈」を巡って、「当事者同士」で解決すべきだと考えています。(後に触れる森達也さん風に言うなら、「主語が私(自身)」でないクレームはクレームたり得ない)。

また、皆が皆いわゆる「言葉狩り」的な対応ばかりしていると、「宝箱の鍵が、宝箱に入ってる」状態で、その文脈が「差別的かどうか」を議論することさえ、まともに出来なくなってしまうのではないか、とも考えています。

『ドキュメント屠場』は未読なのですが、この方面では『放送禁止歌』(森 達也著 智恵の森文庫)、『近代の奈落』(宮崎 学著 幻冬舎アウトロー文庫)、そして『中世の非人と遊女』(網野 善彦著 講談社学術文庫)が印象に残ってます。

『放送禁止歌』は、「放送禁止」なるものが、いかに(日本的共同性故に)明文化もほとんどされずに「空気」として成立していくかが非常に良く分かりました。
印象的だったのは、「竹田の子守歌」が放送禁止扱いになってることを、竹田地区が存在する京都の解放同盟関係の人々自身が知らなかった事。

『近代の奈落』は著者が日本各地の部落を丁寧に歩きつつ、明治期から戦後へかけての解放運動の経緯を詳しく追う内容でした。
明治になって「天皇の元、国民はみな平等」とスローガンは良いとして、それまで持っていた「既得権益」(と言っても、生活には絶対的に必要だったもの)を否定され、スローガンとは裏腹に「空気」だけが残ってしまう構造。これが今まさに繰り返されてる印象です。

これらを読んでから気になっているのが、IME辞書に、「差別語」(と誰が決めたか呼ばれている単語)が入っていない事です。
レッシング先生風に言うなら「法」「市場」「規範」のコントロールを経ないまま、「アーキテクチャ」の設計者がそのように設計した結果、IMEの使用者は「特段、考えることもなく、楽に“差別語”使用のリスクから遠ざけられる」といったところでしょうか。そして「自動的」に本人も知らないうちに「言葉狩られ」続け、結果的に「規範」がコントロールを受けることになる、のかも知れませんね。
尤も、辞書に入っていたら入っていたで、文脈上、使うべきでないときに「誤変換」してしまうリスクもあるので、「入れる/入れない」で争うよりは、使う側がその時その時で「考えて」使う、ことが重要かと思っています。


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コメント 1 件

Sa-Q より:

コメントも出来そうかしら? ……OKてすね(笑)。

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