なんだか回を追う毎に引用部分が増大し、長文化している気がしますが
。
めげずに、前回に引き続き「アナキズムは何を主張しているか?」の続きです。5回のうち、やっと3回目です。半分超しました(爆)。でも、セクション「A.2」の半分を超したに過ぎないです
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今回は、
「ヒエラルキーの廃絶は何を意味し、何を成し遂げるのか?」
「何故、大部分のアナキストが直接民主主義を支持するのか?」
「コンセンサスは、直接民主主義に代わりうるのか?」
「アナキストは個人主義なのか、それとも集団主義なのか?」
について読んでいきます。
「ヒエラルキーの廃絶は何を意味し、何を成し遂げるのか?」
リバータリアン組織に基づいて新しい社会を創造することは、日々の生活に数え切れない程の影響を与えるだろう。数多くの民衆が権能を持つことにより、今は推測するしかないようなやり方で社会が変わるだろう。
しかし、多くの人がそうした組織形態は非現実的で、失敗するに決まっていると考えている。連邦的で非権威主義の組織は混乱と分裂を招く、と考える人たちに対して、アナキストは次のように主張する。国家主義で中央集権型のヒエラルキー組織形態は、参画ではなく無関心、連帯ではなく薄情、団結ではなく画一化、平等ではなく特権的エリートを生む。その上さらに重要なことだが、そういう組織は個人の発意を破壊し、独立した行動や批判的思考を押し潰すのである(ヒエラルキーについては、セクション B.1 「何故アナキストは権威及びヒエラルキーに反対するのか?」を参照)。
「多くの人がそうした組織形態は非現実的で、失敗するに決まっていると考えている。」に対する反論として「ヒエラルキー組織形態の難点」を並べてます(笑)。論点ズラしです(笑)。
でもご安心を。直後にこう書いています。
リバータリアン的組織がうまく機能すること、それが自由に基づき自由を促進するものであるということは、スペインのアナキズム運動が証明した。イギリス独立労働党の書記長フェンナー=ブロックウェイは、1936年の革命中にバルセロナを訪れた際、次のように記した。『アナキストたちの間には大きな連帯が存在している。それは、各個人が、指導部に依存せずに、自分の強さを頼みにしているためである。組織が成功するためには、自由に考える人々が結びついていなければならない。単なる群衆ではなく、自由な個人が結合しなければならないのである。』[Rudolf Rocker, Anarcho-syndicalism, p. 67f で引用]
個人の観察なので、論拠としては薄弱な気がしないでもないですが、「単なる群衆ではなく、自由な個人が結合しなければならない」というのは、これまでも、そしてこれからも何度も出てくる「アナキズム的組織」の特徴ですね。ちなみに、何の説明もないですが、文脈からして「リバータリアン的組織」とは「アナキズム的組織」と同意語でしょう。詳しくは「A.1. 3 アナキズムは何故「リバータリアン社会主義」とも呼ばれるのか?」を復習です。
アナーキーはまた、資本主義とその権力関係から利益を受けているといわれる人たちにとっての利益にさえなるだろう。アナキストは『主張する。支配者も支配される側も、双方とも権威によってダメにされている。搾取する側も搾取される側も、どちらも搾取によってダメにされているのだ。』[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 83] なぜなら『いかなるヒエラルキー関係においても、支配者は従属者と同様に、高い代価を支払わされている。「統御の誉れ」の代価は実際深刻なのである。あらゆる暴君は、自分の対価に憤慨していた。暴君は、ヒエラルキー旅行の道のりで、最初から最後まで、服従者の中に眠る創造的潜在能力という死加重を引きずる羽目になっているのだ。』[For Ourselves, The Right to Be Greedy, Thesis 95]
チョッと難しい一文ですね。しかし、「資本主義とその権力関係から利益を受けているといわれる人たちにとっての利益にさえなるだろう。」という指摘は重要だとおもいます。
「服従者の中に眠る創造的潜在能力という死加重」というのは、つまり、支配される人々が潜在的に持っているはずの創造性が発揮されないため、組織が不活発化する、という意味でしょうか。
だとすると、少し一面的な見方であり、現在の複雑化した社会システムにおける「会社」組織が、いかに「創造性」を重要視している(有名な幾つかのIT企業が典型ですね)かという事実とズレがある気がします。とはいえ、大部分の「会社」組織に関して言えば、当てはまる部分があるかも知れません。
「何故、大部分のアナキストが直接民主主義を支持するのか?」
当たり前のことだが、人間的生活を謳歌するためには、個人は協力して働かなければならない。そして、『他の人と協力せざるを得ないとなると』個人は三つの選択肢を持つ。『他人の意志に服従する(奴隷になる)か、自分の意志に他人を従わせる(権力者になる)か、万人に最大の利益をもたらすべく友愛を持って合意する中で他者と共に生きる(仲間になる)かである。誰もこの必然から逃れることはできない。』[Errico Malatesta, Life and Ideas, p. 85]
アナキストはもちろん、最後の選択肢、協同組織を選ぶ。それが、個人が自由で平等な人間として共に活動する唯一の方法であり、お互いの唯一性と自由を尊重する方法だからである。直接民主主義の中で初めて、個人は自己表現できるようになり、批判的思考と自制を実践できる。そのことで、自分の知的・倫理的能力を最大限発達させることができるのである。個人の自由を増大させ、個々人の知的・倫理的・社会的力量を大きくするという点では、いつもボスの意志に従順であるよりは、時には少数派にいる方がずっと良い。それならば、アナキズムの直接民主主義の背後にある理論はどのようなものなのだろうか?
バートランド=ラッセルは次のように書いている。アナキストは『集団的意志決定という意味での政府の廃絶を望んではいない。廃絶しようとしているのは、決定に反対する人々にその決定が無理矢理押し付けられるシステムである。』[Roads to Freedom, p. 85]
『集団的意志決定という意味での政府の廃絶を望んではいない。廃絶しようとしているのは、決定に反対する人々にその決定が無理矢理押し付けられるシステムである。』
つまり、アナキスト=無政府主義者というのは、やはり誤訳ですね。人間が社会生活を営む以上、「集団的意志決定」は必ず必要です。その事はアナキスト的組織を持ち出すまでもなく、アナキストは熟知している訳ですね。
問題は、少し先走りますが「多数派の意志決定が少数派に無理矢理押しつけられる」システムにある、ということだと思います。
しかし、その「問題」にたどり着く前に、直接民主制についての説明が延々と続きます(笑)。
協同組織は、メンバー全員の集会を中心に組織される(大きな職場や町の場合、部署や町内といった機能的なサブグループが中心となるであろう)。この集会では、他の集会と協力しながら、個人の政治的責務の内容が定義される。協同組織で活動する中で、人々は批判的判断と選択を行わなければならない。つまり、自分たちの活動を自分たちで管理するのである。服従を約束する(国家や資本主義企業のようなヒエラルキー組織ではそうなのだが)のとは異なり、個々人は、自分が関与する集団の意志決定に参加し、仲間に対する自分の態度を表明することに参加するのである。つまり、政治的責務は、当該グループや社会の上部にある国家や企業のような別個の団体が負うのではなく、仲間の「市民」同士が負うのである。
集会に集まった人々は協同組織の規則を集団的に制定し、個人としてその規則に拘束される。しかし、その規則はいつでも変更したり廃止したりできる、という意味で、個人は規則よりも上位なのである。集団として、提携した「市民」は政治「権力」となる。しかし、この「権力」は、個人間の水平的関係に基づくものであり、個人とエリートの間での垂直的関係ではないため、この「権力」は非ヒエラルキーなのである(それは「理性的な」もしくは「自然な」ものなのである。
さらりと書いてますが、この直接民主制、個人に掛かるコストは莫大なものだとワタシは思っています。
無論、此処に書いてあることが実現すれば、それは素晴らしい事ですが、何度も書きますが「自分で考え、行動し、責任を取る」事が出来る人間は、あまりに少ない。それ以外の人にとっては、これは苦痛でしかない組織形態でしょう。
「じゃぁ、Sa-Qは直接民主制に反対なのか?」と問われれば、答えは「ノー」です(笑)。
何回か前に「(アナキズム的組織を実現するためには)教育によって埋め込む」必要があるのではないか、と書きました。その後、気が付いたのですが、この「アナキズム的組織」による「直接民主制」自体が、「教育」の実践場になるのではないか。そう思うようになりました。ただまぁ、そういう「組織」を作るのが、特に日本においては一苦労では済まないとも考えていますが。
もちろん、こうしたシステムでは、どれほど些細なことであっても、必要な決定事項全てに万人が参加する、という意味ではない。いかなる決定であっても集会で提起することはできる(集会でそのように決定されたのであればの話であり、多分、メンバーの一部が提起することになるのだろう)が、実際には、ある種の活動(そして純粋に職務的な決定も)は、協同組織の選任運営陣が担当することになろう。その理由についてスペインのアナキスト活動家、ホセ=リュナス=プホルスを引用しよう。『集団それ自体は手紙を書いたり、データ表の数字を合計したり、様々な雑役を行ったり出来ない。これらのことを行うことが出来るのは、個人だけである。』つまり『管理を組織する』必要があるのだ。ある協同組織が『指導的な委員会やヒエラルキー型の官職なしで組織されている』と仮定しよう。この組織は『週に一度以上総会を開き、組織が進歩するために必要な事柄全てを処理する。』この組織はさらに『厳密な管理職務を持つ委員会を任命する。』ただし、総会が『この委員会に明確な運営方針を指示したり、強制的委任をしたりする』のである。そのことで『完全な無政府状態になるであろう。』この組織が『どのように事を進めるのか予め指示された適任者に、それらの職務を委任することは、集団性それ自体の自由を放棄することにはならない。』[Max Nettlau, A Short History of Anarchism, p. 187で引用]
更に直接民主制によるアナキスト組織の説明が続きます(笑)。
まぁ、当たり前のことなので、次、いきましょう(爆)。
これまで述べてきた直接民主主義の概念は、多数決原理の概念と必ずしも結びついてはいない。特定の投票で少数派になった場合、少数派は、投票結果に拘束力があると認めることに同意するか、拒否するかの選択に直面する。少数派に判断や選択を行使する機会を与えないのは、自律性を侵害し、自由合意に基づかない義務を負わせることである。多数派の意志に強制的に従わせるのは、引責義務という理念に反し、従って、直接民主主義と自由提携の理念にも反する。故に、自由提携と引責義務という文脈での直接民主主義は、自由の否定ではなく、自由を育むことのできる唯一の手段なのである(『個人の自律は特定の約束事を守るという義務によって限定される』[Max Nettlau, Errico Malatesta: The Biography of an Anarchistで引用されているマラテスタの言葉])。言うまでもなく、少数派がその組織に留まった場合には、少数派は自分の言い分を主張し、多数派が誤った道を進んでいることを説得しようとすることができる。
ここで指摘しておかねばならないが、アナキストが直接民主主義を支持しているからといって、多数者が常に正しいと考えているわけではない。とんでもない!民主的参加の主張は、多数派が常に正しいということではなく、全体の福祉よりも自分たちの利益を優先しない少数派はいない、ということなのである。
やっと「多数派の意志決定が少数派に無理矢理押しつけられる」システムへの処方箋が出てきました(笑)。
そう。「多数決」というと「民主主義」の象徴であり、切っても切れない中と思われがちですが、小室直樹先生によれば、それは違うとのことです。
「多数決」の起源は、ローマ教皇を新しく決める際に行われる「コンクラーヴェ」にあるそうです。なぜ、「コンクラーヴェ」に多数決が取り入れられたのかというと、それは教皇不在という不安定な期間を短くするため、「意志決定」を迅速に行うため、です。
つまり、「多数決」と「民主主義」は何の関係もない。むしろ、少数者の意見を封殺するために役立ってきた、というわけです。
とはいえ、ワタシ自身は「少数者の意見を封殺」するのは大反対であると前置きした上で、やはり現在の複雑化した社会システムにおいて、意志決定の迅速さは必要な要素である、という意見も納得できなくはないのです。このあたり、悩ましいところですが。
でも、現在の日本の政治状況を見れば、多数決が「意志決定の迅速さ」故に取り入れられていると誰も理解していないように見えますし、むしろ「敵」をいかに「少数者」に陥れ、いかに「勝ち組」に残るか、という政局ゲームに血道を上げているように見えます。
まぁ、そういう政治家を選んだのはワタシ達自身、なんですけどね。
少数派には、行動・抗議・アピールを行う権利があるのと同様、組織を脱退する権利もあるのだから、多数決が原理として強いられているわけではない。むしろ、多数決は純粋に意志決定の手段に過ぎない。少数派が自分の意志を多数派に強制しないように保証しながら、少数派が反対し意見を表明する(そして自分の意見に従って行動する)ことができるようにしているのである。つまり、多数決は少数派に対する拘束力を持っていないのである。
うん~フリーダム(笑)。これはこれで、少数者にとって結構勇気の要る決断だと思いますが、まぁ当然の帰結でしょうね。
最後に強調しておかねばならないが、アナキストが直接民主主義を支持しているからといって、この解決策があらゆる場面で望ましいという意味ではない。例えば、多くの小規模組織では、全員一致(コンセンサス)方式の方が望ましいかもしれない(コンセンサスについて、そして、アナキストがコンセンサスを直接民主主義に対する現実的代替案だと思っていない理由については次のセクションを参照)。しかし、ほとんどのアナキストの考えでは、自由な組織内部での直接民主主義は、個人の自由・尊厳・平等というアナキズム原理と一致している、最良の(そして最も現実的な)組織形態なのである。
先ほども書いた通り、「意志決定の迅速さ」に難点があるようにも感じますが、大旨賛成できる主張である、とワタシは思います。
「コンセンサスは、直接民主主義に代わりうるのか?」
そろそろ疲れてすっ飛ばしたくなりますが(笑)、進めましょう。
自由な協同組織内部での直接民主主義を否定するアナキストは、一般に、コンセンサス方式の意志決定を支持するものである。コンセンサスは、決定を実行できるようにする前にグループの全員が合意していることを基礎とする。コンセンサスは、多数派が少数派を支配できないようにしているため、直接民主主義よりもアナキズム原理に一致している、と主張される。
これは一見、何となく理にかなった主張のように見えます。が……。
もっと理論的なレベルについて言えば、コンセンサスは、あらゆる対話が持つ最も活力ある側面、意見の相違(ディセンサス)を静めてしまった。継続的な異議は、少数派が大多数の意志決定に一時的に応じた後にも継続する情熱的な対話なのだが、退屈な独白--そして、論駁のない、精彩の欠いたコンセンサスのトーン--に置き換えられてしまったのだった。多数決意志決定では、敗北した少数派は自分が敗北した決定を覆そうと決意できる--少数派は、論理的に考えられ、潜在的に説得力を持っている異議をオープンに一貫して声にすることができるのである。一方、コンセンサスの場合には、少数派を尊重せず、「コンセンサス」集団の形而上学的「統一」の利益となるように、少数派を黙らせるのである。[“Communalism: The Democratic Dimension of Anarchism”, Democracy and Nature, no. 8, p. 8]
これは目から鱗でした。
確かに、コンセンサス方式(満場一致)方式では「論駁のない、精彩の欠いたコンセンサスのトーン」によって、少数意見は覆い隠されてしまいますね。
ある種の国会決議で「満場一致」になった時に流れる微妙な空気の正体は、これだったのか。
ブクチンは、『お互いに徹底的に知りあっている人々の小集団内での意志決定形態として適切だと見なすことができる、ということは否定』していない。だが、実際問題として、彼の経験が示したのは次のことだった。『より大きな集団がコンセンサスによる意志決定をしようとすると、知的に最低の共通見解にしか到達せざるを得なくなるものだ。大規模な民衆集会が達成できる、最小限の論争しか巻き起こさない、最も凡庸な決定が採用される--それは、正に、誰もがそれに同意するか、さもなくば、その議題に投票するのを止めるかのどちらかしかないからなのである。』[前掲書, p. 7]
「知的に最低の共通見解にしか到達せざるを得なくなるものだ。……最も凡庸な決定が採用される」というのは、確かにある種の「満場一致」の時に起きる事態を端的に表現しているように感じます。
「アナキストは個人主義なのか、それとも集団主義なのか?」
正直、「どっちでも良いだろう」と言いたくなりますが(笑)。押さえて進めます。
アナキストにとって、「集団」や「より大きな善」のために個人を犠牲にすべきである、という考えほどバカバカしいものはない。集団は個人から成り立っている。もし人々が集団にとって最良のことしか考えないのだとしたら、集団は生命のない抜け殻になってしまう。集団に生命を与えるのは、集団内での人間のダイナミックな相互作用に他ならない。「集団」は考えることはできない。個人だけが考えることが出来る。皮肉にも、この事実によって、権威主義的な「集団主義者」は最も特殊な「個人主義」へと、つまり「個人崇拝」と指導者信仰へと導かれる。当然のことだ。こうした「集団主義」は、個人を幾つかの抽象的集団に分類し、個性を否定し、最終的に、決断を下すだけの充分な個性を持った人を必要とするのだから。問題は指導者原理によって「解決される」というわけだ。スターリン主義とナチズムがこの現象の良い例である。
うん~。これは思ったより大きな魚が出てきました。ナチズムの前にスターリン主義が挙げられているのがなんだかほほえましいですが、笑って読める一文ではありませんね。
集団を形作る「個人」がダイナミズムを発揮せず、「集団」に帰依するなら、集団は抜け殻となり、そこにある種の個性を持った個人が滑り込み、個人崇拝へとなだれ込む。
この辺りの構造を、オーム真理教の内部から外部を見たドキュメンタリー『A』『A2』を撮った森達也監督は「主語」をキーワードに語っていました。つまり「今話してる“主語”は自分か? 空虚な集団か?」。昔から「我々はぁっ」と語るヤツが嫌いだったワタシ(笑)は、非常に納得できる話しです。まぁ、気をつけて使ってますが、ワタシも「ワタシ達」と書いてますけどね
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抽象的個人主義を基礎にした社会では、契約する個人間の権力の不平等を生む。その結果、権威が必要だとされる。この権威は、個人に優越する法に基づき、個々人間で交わされた契約の履行を組織的に強制する。この帰結は資本主義を見れば明らかであり、最も顕著に現われているのは、国家がどのように発展するのかを説いた「社会契約」理論である。この理論では、個人が「自由」なのは、互いに孤立している時だとされる。なぜなら、それが元来の「自然状態」だからだという。社会に加わると、個人は「契約」を創り、それを執行させるための国家を創るというわけだ。しかし、現実に何の根拠もない幻想はともかく(人類は常に社会的動物であった)、この「理論」は、現実には、国家が社会に対して広範な権力を持っていることを正当化しているのである。そして、次には、強力な国家を必要とする資本主義システムを正当化する。同時にこれは、この理論の基盤となっている資本主義経済関係の結論とそっくりである。資本主義では、個人はお互いに「自由に」契約を結ぶ。しかし、実際には、契約が実施されている限り、所有者が労働者を支配するのである(詳細はセクションA.2.14とセクションB.4を参照)。
ふふふ(笑)。この引用文はチョッと笑えました。
なぜなら、「社会契約」 理論とは、ホッブスの『リバイアサン』で展開されている理論だからです。
『リバイアサン』は、「国家」の猛威を怪物に見立てて書かれたもので、ある意味、アナキストと同じモノを「敵」とみなしているのですが、その「前提条件」は真逆と言って良い程、遠く隔たっています。
それもそのはず、アナキズム的色彩の濃かった「パリ・コミューン」を含む、フランス革命の猛火を見ながら、イギリスで書かれたのが『リバイアサン』なのです。
まぁ、お互い犬猿の仲になるというものですね(笑)。
