日々の偏ったニュースに思うこと

『アナキズムFAQ』読解 第6回「A.2 アナキズムは何を主張してのいるか?(4/5)」

今、台風が絶賛接近中です :-P 。だいぶ風雨が強くなってきました。チョッとテンション上がってます(爆)。出来れば「台風の目」を観測したいところですが、微妙に進路からズレてるようで、残念です(笑)。

さて、今日のお題ですが、

「何故、任意主義は不充分なのか?」
「「人間の本性」についてはどうなのか?」
「アナキズムには「完全な」人間が必要なのか?」
「大部分の民衆はバカなため、自由社会を作れないのではないのか?」

といった辺りを読んでいきたいと思います。

「何故、任意主義は不充分なのか?」

 任意主義とは、自由を最大限尊重するために協同組織は任意的なものでなければならない、という意味である。アナキストが任意主義者であることは明らかであり、自由合意で創られた自由な協同組織においてのみ、個人は発達し、成長し、自分の自由を表現できるようになると考えている。しかし資本主義の下にあっては、明らかに、任意主義だけでは自由を最大尊重するのに不充分なのだ。

さて、最初から難しい言葉が出てきました。「任意主義」。もう少し説明を読んでみましょう。

 任意主義とは約束(つまり、契約する自由)を意味している。約束とは個々人が自立した判断をでき、筋道の通った討議をできるという意味である。さらに、これは、個々人が自分の行為と他人との関係とを評価し変えることができるということを前提としている。しかし、資本主義における契約はこれら任意主義が示していることに反している。

つまり、自由で自立した精神で「約束」を結び、またそれを自由に項目の足し引きが出来たり、解消したりできる、ということでしょうか。

前回までで述べてきた通り、「アナキズム的組織」を考えてみればわかりますが、組織で「少数派」だからといって、反論したり、時には組織を離脱できる自由が保障されていました。

これがつまり「任意主義」、ということなんだと思います。

ところがここで、再び「資本主義」を前提とした場合、「任意主義」では充分ではない、との主張が展開されます。

 このことは資本主義社会に見ることが出来る。労働者は生きるためにボスに自分の自由を売り飛ばしている。実際、資本主義の下での自由など、誰に服従しようかを選ぶことができるという程度のことでしかないのだ!しかし、自由とは主人を換える権利以上のことでなければならない。隷属は、任意にしたところで、隷属でしかない。ルソーが主張しているように、主権が『それを不可分にしているのと同じ理由で、代表され得ない』とするならば、主権は、売り渡されたり、雇用契約によって一時的にでも無効にされることもできない。

「労働者は生きるためにボスに自分の自由を売り飛ばしている。」 何年か前のフランスのバカロレア(大学入学資格試験)で、「自由と労働は両立するか否か?」という問題が出たそうです。しかも理系も受ける試験に(笑)。こういう「知識」ではなく「思考力」を重視するヨーロッパは、やはり歴史があるだけ凄いものだと感心した覚えがあります。

それはともかく、アナキストは件のバカロレアには「ノー。両立しない」と書くことになるのでしょうね(笑)。確かに、ワタシ達は「生きるためにボスに自分の自由を売り飛ばしている。」 のかもしれません。

しかしこれも、少し古い構図ではないかと思わないでもないです。いや、何も「仕事で自己実現」といった、フォーディズムの時代に逆戻りする訳ではありませんが、ボスだって一端は雇った以上、簡単に部下のクビをすげ替える訳にはいきませんし、何より、この議論は「資本主義攻撃」のためにする議論、に見えなくもないです。

ではこれを「国家」のレベルに引き上げて考えてみるとどうなるか。

他の国の国籍や、多重国籍の保持者など、少数の例外を除けば、ワタシ達は生まれてくる国を選べません。いや、正確に言えば、大金持ちなら、国外に幾らでも別荘を持ったり、引退後移住しちゃったりできるでしょうが、貧困国や内戦中の国に生まれてきた人は、国家間の「参入離脱の自由」を持ち得ないでしょう。

そう考えれば、「ワタシ達は生きるために国家に自分の自由を売り飛ばしている」と言えなくもない気もします。

とはいえ、、、

同様の理由で、アナキストは(プルードンは明らかに例外だったが)結婚に反対してきた。その理由をヴォルテリーン=デ=クライアーは次のように述べている。女性を『主人の名を名乗り、主人のパンを食べ、主人の命令を聞き、主人の情念に仕え、主人の同意無しにはいかなる財産をも管理できず、自分の肉体すら管理できない、身動き取れぬ奴隷』にしているからだ [Paul Avrich, An American Anarchist: The Life of Voltairine de Cleyre, p. 160で引用]。フェミニストの扇動によって、結婚は、平等者の自由結合というアナキズムの理想に向けて改善されてきているが、なおも、ゴールドマンとデ=クライアーのようなアナキストが特定し非難した家父長制原理に基づいているのである(フェミニズムとアナキズムに関してはセクションA.3.5を参照)。

ここまで踏み込む勇気はワタシにはありません :lol: 。いや、結果的には「アナキスト」的振る舞い(未婚)をしていますが、こればっかりは、自分が「条件付きアナキスト」だから、ではありません! 絶対に(笑)。

とまぁ、自虐ネタはこれくらいにして、これについても少し考えてみますと。

現在の日本では、少なくともここまで酷い「家父長制」は、かなりの例外を除けば、ほとんどないのではないでしょうか。

それが即座に「良いこと」だと言い切れないところが、ワタシには悩ましいところです。まぁ、結婚生活を送ったことがないので、考え過ぎなのかも知れませんが、VIDEONEWS>COM の神保哲生氏がよく言うように、「産湯と一緒に赤ん坊まで流し捨てる」、つまり、古い要らないモノを捨てるのに、(その古いモノが担ってきた)「必要な機能」まで捨て去ってしまう、と言うことです。そういう部分がもしかしたら結婚生活においてもあるのかも知れません。

 もちろん、「アナキストは、ある種の社会的関係を他のそれよりも重要視しているではないか」そして「真の自由人であるならば他人が自分なりの社会的関係を選ぶ自由を許容すべきだ」という反論もあろう。

 途中をはしょって、この二つの「アナキストへの反論」について考えてみます。

 第二の反論から先に回答させてもらおう。私有財産(国家主義もそうだ)に基づいた社会において、財産を持った人々は多くの権力を握り、それを使って自分の権威を永続させることができるようになる。アルバート=パーソンズは『富は権力であり、貧困は弱さである』と述べている。つまり、資本主義の下では、非常に賞賛されるべき「選択の自由」など、極度に限られているのである。大多数の人々にとって、主人を選ぶ自由となっているのである(パーソンズは皮肉を込めて述べているのだが、奴隷制の下で、その主人は『自分の奴隷を選んでいた。賃金奴隷制の下では、賃金奴隷が自分の主人を選ぶ。』)。パーソンズは強調している。資本主義の下で『自分の自然権を相続していない無産者は、抑圧している階級に雇われ、仕え、服従するか、餓死するしかないのだ。他の選択肢などない。金では買えないものが世の中にはあり、その最高のものが命と自由である。自由人は売ったり雇ったりされないのだ。』[Anarchism, p. 99 and p. 98] ならば、何故、私たちは隷属状態を許容し、他者の自由を制限したいと思っている人々を我慢しなければならないというのだろうか?命令する「自由」は奴隷になる自由である。従って、実際には自由の否定なのだ。

 『富は権力であり、貧困は弱さである』、これは現在の資本主義社会においては真実ですね。

確かに、「貧しくても楽しい我が家」という時代が、日本にも高度経済成長期の直前くらいにあったかと思います。

とはいえ、現在では『富は権力であり、貧困は弱さである』、これを否定できるのは、資本(お金)の怖さを知らない人なんだと思います。端的な例は、先ほど挙げた、「生まれてくる国を選べない」事ですね。

では第一の反論についてはどうでしょうか。

 最初の反論に関して、アナキストはその罪を認める。私たちは偏見を持っているのだ。私たちは偏見を持って、人間がロボットの状態へと陥落させられるのに反対する。私たちは偏見を持って、人間の尊厳と自由とを好ましいものだと思う。実際、私たちは偏見を持って、人間性と個性とを素晴らしいと思っているのだ。

 認めちゃってます(笑)。開き直ってます(笑)。とはいえ、「偏見」の無い思想、というのは存在し得ないような気もしますし、これはこれで良いのかも。

 「人間の本性」についてはどうなのか?」

 アナキストは、「人間の本性」を無視するものではさらさらなく、この概念を深く考え、反映させるための唯一の政治理論を持っている。「人間の本性」は、アナキズムに反対する主張を弁護するときの最後の台詞として投げかけられることが非常に多い。アナキストには返答できないと思われているからである。だが、そんなことはない。
 第一に、人間の本性は複雑である。人間の本性が「人間が行っていること」を意味するのであれば、それは明らかに矛盾だらけである。愛と憎しみ・同情と無情・平和と暴力など、これらは全て人間が表現していることであり、全て「人間の本性」の産物である。もちろん、「人間の本性」は社会情況と共に変化する。例えば、数千年もの間、奴隷制度は「人間の本性」の一部であり「普通」のことだと考えられていた。同性愛は古代ギリシャでは完全に普通のことだと見なされていたが、キリスト教教会が非難して以来数千年間は不自然なものになった。国家が発展して初めて、戦争は「人間の本性」の一部となった。

 「人間の本性」は社会情況と共に変化する。」、これは重要な指摘だと思います。

例えば、「イスラム教の指導者」とメディアで出てきたりしますが、これは正しく訳すと「イスラム法学者」、なのだそうです。社会システム論で言えば、<社会>のサブシステムであるところの<宗教>と<法>が未分化の状態(これは決して「劣っている」という価値判断を含みません)なのであって、そういう文化と資本主義とが相容れることは非常に難しい。つまり、「人間の本性」なんて、その程度のものなのかもしれません。

 だからと言って、人類が何から何まで環境によって形成され、個々人は、「社会」(実際にはこれは、社会を運営している人々のことである)が形作ってくれるのをただ待っているだけのタブララサ(何も書かれていない石板)として生まれるという意味ではない。(略)人間の特徴のどれが「生得」的で、どれがそうではないかという議論をここでするつもりはない。ここで言おうとしていることは、人間は、思考し学習する能力を生得的に持っている--これは充分明白なことだと私たちは感じている--のであり、自分が完全だと感じ成功するために他者との付き合いを必要とする社交的な生物である、ということである。さらに、人間は、不公正と抑圧を認識し、それに反抗する能力を持っているのだ(バクーニンは正しくも『思考する力と叛逆の欲求』を『尊い能力』だと見なしていた [God and the State, p. 9])。

 これは、「人間の本性」は時が経ち、学習や経験から変化していく、ダイナミックなものだということでしょうか。

以前、「(アナキズム的組織を実現するためには)教育によって埋め込む」必要があり、「直接民主制」自体が、「教育」の実践場になると書きました。やはりその考えは正しそうな気がしてきました(笑)。

「アナキズムには「完全な」人間が必要なのか?」

 いらない。アナーキーはユートピア、つまり「完全な」社会ではない。それは人類に関連した諸問題・希望・恐怖全てを持った人間の社会となるであろう。アナキストは、アナーキーが機能するために人間が「完全」でなければならないとは考えない。ただ自由にならねばならないのだ。

 ワタシはこれまで何度か「自分で考え、行動し、責任を取れる人間はあまりに少ない」と書いてきました。誤解のないように書いておきますが、これは「完全な」人間、を指しているのではありません。このセクションと次のセクションではその事について書いていきたいと思います。

アナキズムに反対する人々は「完全な」人間--権威ある立場についても権力に溺れることのない人間、ヒエラルキーや特権などの歪んだ効果に奇妙にも影響されることのない人間--を想定していることが多い。しかし、アナキストは人間の完成についてその様な主張をしない。私たちは、人間は完全ではないからこそ、一人の人間やエリートの手に膨大な権力が握られることは良い考えなどではない、と認識している。
 記しておかねばならないが、アナキズムは「新しい」(完全な)人間を必要としているという考えは、アナキズムの敵対者が提起していることが多いのである。アナキズムの信用を落とそうとしている(そして、通常、ヒエラルキー型権威の、特に資本主義の生産関係にけるヒエラルキー型権威の、維持を正当化している)のである。結局、民衆は完全ではないし、完全になることなどありそうもない。したがって、こうした敵対者は、アナキズムを非現実的だとして無視するために、政府が崩壊したあらゆる実例に飛び掛り、結局は混乱に終わるのだと責め立てる。「法と秩序」が崩壊し、略奪が行われているとき、メディアは、その国は「アナーキー」に陥ったと大喜びで宣言するのが常なのである。

ここで言われている「完全な」人間とは何だろう。「権威ある立場についても権力に溺れることのない人間、ヒエラルキーや特権などの歪んだ効果に奇妙にも影響されることのない人間」と説明されてますが、こんな人間、有り得ませんよね(笑)。

無論、歴史上には「立派な人」、「『徳』のある人」は多くいました。特に「権威ある立場についても権力に溺れることのない人間」に近い人は、結構居たんじゃないかと思います。

しかし、それらの人が何の「歪み」も持ち合わせていない、とはとても考えられません。

 アナキストは、こんな主張には動じない。ちょっと考えれば分かることだが、このような誹謗中傷をしている人々は、アナキストのいないアナキズム社会を想定するという基本的な誤りをしているのである!(右翼「アナルコ」キャピタリストも真のアナキズムの評判を落とすために似たような主張をしている。だが、そうした人々の「異論」は、アナキストのいないアナキズム社会を暗に想定しているために、自分たちがアナキストだという主張自体を疑わしいものにしているのである!)言うまでもなく、未だに権威・財産・国家を必要だと見なしている人々から成る「アナーキー」なぞ、すぐにも権威主義(つまり、非アナキズム)社会に戻ってしまうだろう。政府が明日転覆されても、同じシステムがすぐに生まれてしまうからである。『政府の強みは政府それ自体にあるのではなく、民衆にある。大暴君はバカではありえても、超人であることはない。その人の強みはその人自身にあるのではなく、その人に従うのが正しいと考えている民衆の迷信にある。そうした迷信が存在する限り、解放者が暴政の首を切り落としても何の意味もない。民衆は別なものを作り出してしまう。民衆は自分たちの外にいる何かに依存するのにすっかり慣らされているからなのだ。』[George Barrett, Objections to Anarchism, p. 355]

「アナキストのいないアナキズム社会を想定する」。何度か引用文に登場した通り、アナキズムは「下から」の運動ですね。その「下」を支える人間が居ないのに、屋根だけある(社会構造だけある)のは、あまりに滑稽だし、維持運用者が誰も居ないのだから、早晩崩れさる事は、分かり切ったことです。

とはいえ、「未だに権威・財産・国家を必要だと見なしている人々から成る「アナーキー」なぞ、すぐにも権威主義(つまり、非アナキズム)社会に戻ってしまうだろう。」という批判は、「条件付きアナキスト」としては耳が痛いですが、肝に銘じておきます。

 言い換えれば、アナーキーを作り出し長続きさせるには、アナキストが必要なのだ。しかし、こうしたアナキストが完全である必要はない。命令-服従関係と資本主義的所有権が必要だという迷信から自身の努力で自己解放をした人であればいいのだ。アナーキーには「完全な」人が必要だという考えの裏には、自由は与えられるものであり勝ち取るものではない、という前提がある。したがって、「完全な」人間を必要とするアナーキーは失敗する、という自明の結論が導かれるわけだ。しかし、この主張は、自由社会を作り出すためには自主的活動と自己解放とが必要だということを無視している。アナキストにとって、『歴史は、支配する側とされる側との、抑圧する側とされる側との闘争である。』[Peter Kropotkin, Act for Yourselves, p. 85] 思想は闘争を通じて変化する。その結果、抑圧と搾取に対する闘争において、私たちは世界を変えるだけでなく、同時に自分たち自身を変えるのだ。自分自身の生活に・地域社会に・この惑星に関して責任を取ることができる人々を創り出すのは、自由を求めた闘争なのである。自由を求めた闘争が、自由社会において平等者として生活できる人々を創り出し、アナーキーを可能にするのである。

 この部分を読むと、前にも少し触れた『近代の奈落』(宮崎学著 幻冬舎アウトロー文庫)を思い起こします。

明治期以降、「部落解放運動」には、共産党員主導のものと、アナキスト主導のものと二系統存在しますが、共産党員の解放運動はどちらかというと「完全な人間」を求めていたように思います。また、共産党員の解放運動も「自由は勝ち取るもので与えられるものではない」という点では一致しているように見えますが、共産党員の解放運動は(主語がない)「『我々』が勝ち取るもの」という傾向が微妙に見え隠れしていたようにも思います。

対してアナキストはやはり、当事者(被差別部落出身者)が「自由」に目覚め、自ら行動することを支援する方向性だったように思います。

 したがって、政府が消滅した結果として生じる混乱はアナーキーでもなければ、実際、アナキズムに不利な実例ですらない。単に、アナキズム社会を創造するために必要な前提条件が存在していない、というだけのことである。アナーキーは、社会の中核における集団闘争の産物であって、外的ショックの産物ではない。ましてや、強調しておくが、アナキストはそうした社会が「一晩で」出現するなどとは考えていないのだ。むしろ、アナキズムのシステムを創造するのは、イベントではなく、プロセスなのである。どのようにアナキズム社会が機能するのかに関する詳細は、即座に完全な形で出現するのではなく、経験と客観的情況を踏まえて時間とともに進化していくのである(マルクス主義者は逆の主張をしているが、それについてはセクションH.2.5を参照)

 「アナキズムのシステムを創造するのは、イベントではなく、プロセスなのである。」今までの主張からすると、まさにその通りですね。

今、リビアを初め中東各地で「民衆の蜂起」が起きていますが、この中から「アナキストの国」が生まれることはないでしょう。「暴動と政府の転覆」という「イベント」がアナキズムを創造するのではなく、放棄に参加する人々が自ら「自由」に対して徹底的に考察し、成長していくプロセスがなければ、アナキストが生まれ、アナキズム社会を建設する余地はないでしょう。

 だからといって、アナキズム社会は、万人がアナキストになるまで待たねばならないという意味ではない。全く違う。例えば、金持ちと権力者が突然、自分たちのやり方の誤りを理解し、自発的にその特権を放棄することはまずあり得ない。大規模で成長し続けるアナキズム運動に直面すると、支配エリートは常に、社会におけるその立場を防衛するために弾圧を行使してきた。スペイン(セクションA.5.6)とイタリア(セクションA.5.5)におけるファシズムの利用は、資本家階級がどこまで深く堕ちることが出来るのかを示している。アナキズムは、少数の支配者による抑圧に直面して創造され、その結果、権威を再創造しようという試みに対して防衛されるのである(アナキストは反革命に対してアナキズム社会を防衛する必要を拒絶しているとマルクス主義者は主張しているが、この主張に対する論駁はセクションH.2.1を参照)。

 アナキズムというのは、「既成の社会システム」の中から良さそうなのを選んで(権威の再創造)「勝ち馬に乗る」ことで生成されるものではなく、自ら行動し、考え抜くことで自ら成長すると共にコミュニケーションを通じてじわりじわりと広がっていく。そういう事なんでしょうね。

 逆に、アナキストは、自分たちの活動の焦点は、抑圧と搾取の対象となっている人々を説得することであるべきだと主張する。つまり、そうした人々は抑圧と搾取に抵抗する力を持っており、究極的には、それらの原因である社会制度を破壊することで、抑圧と搾取を終わらせることができるのだ、と説得するのである。

 ここでも『近代の奈落』を思い起こします。「オルグ」ではなく「説得」。この微妙な違いが共産党を含む、他の新旧「左翼」(ここでは分かりやすくするために、あえてこの言葉を使います)運動とアナキズムの違い、なのかもしれません。

 結論を述べよう。アナキズム社会の構築は、人々が完全であるかどうかに依存するのではない。大多数の人々がアナキストとなり、社会をリバータリアンのやり方で再組織したいと思うかどうかに依るのである。だからといって、個人間の葛藤が減るわけでもないし、一夜にして十全に形成されたアナキズム的人間性が出現するわけでもない。社会変革の闘争が闘争を行っている人々を革命的にした後でも存在し続けるあらゆる偏見や反社会的行動を徐々に減じていくための土台を作るのである。

 「だからといって、個人間の葛藤が減るわけでもないし、一夜にして十全に形成されたアナキズム的人間性が出現するわけでもない。」まぁ、当たり前のことですね。むしろ「個人間の葛藤」は増えるのではないかと思います。その時に必要となるのが「忍耐」と相手を説得する「実践的に磨かれた思考」、そして組織に対する「任意主義」、つまり「参入離脱の自由」なのでしょう。

「大部分の民衆はバカなため、自由社会を作れないのではないのか?」

 アナキズムFAQにこの質問を含めなければならないことは残念だ。しかし、多くの政治的イデオロギーは、普通の民衆はバカだから自分の生活を自分で管理したり社会を運営したりできない、と公に仮定している。左翼であれ右翼であれ、資本主義者の政治議題の隅々にこの主張を行っている人々がいる。レーニン主義者であれ、フェビアン主義者であれ、客観主義者であれ、その前提は、選ばれた少数者だけが創造的で知的であり、こうした人々が他者を統治すべきだ、である。「自由」や「民主主義」といった陳腐な文句に関する流暢で華麗なレトリックの裏に、このエリート主義は隠れているものだ。こんなレトリックなど、イデオローグどもが民衆の批判的思考を鈍らせようとして、民衆が聴きたいと思っていることを口にしているだけのことなのである。

 先のセクションでは「自分で考え、行動し、責任を取れる人間はあまりに少ない」というワタシ自身の主張についてあまり(というかほとんど(笑))説明できませんでした。

ここで補足しておきますが、勿論のこと、「自分で考え、行動し、責任を取れる人間」以外はバカだ、とは考えていません。むしろ、(アナキスト流に言えば(笑))「ヒエラルキー構造」が「自分で考え、行動し、責任を取る」というコストを払わない方が楽になるように組織化されているからだと考えます。

加えて、日本には「空気」の支配力という、やっかいなものがあります。これについては、また改めて論じる機会があると思います。

 エリート主義者が民衆の解放に理解を示そうとしている場合であっても、彼らの考える解放は、親切なエリート(レーニン主義者にとって)やバカなエリート(客観主義者にとって)によって、虐げられた人々に与えられるものなのである。だから当然、失敗する。自由社会を作り出すことができるのは自己解放だけである。権威の持つ壊滅的で歪んだ効果を克服できるのは自己活動のみである。こうした自己解放の実例は数少ないが、それ以前には自由など持ち得ないと考えられていた大多数の民衆がその課題に向けて非常に積極的に活動することを証明しているのである。

突然ですが、 ここでイギリスという国について考えたいと思います。まぁ、大戦前の列強諸国ならどこでも良いのですが。

宮台真司氏が指摘していましたが、『サンダーバード』という人形劇は、いかにもイギリス的、なのだそうです。

考えてみて下さい。『サンダーバード』の殆どの回は、「困っている人々」の元に、どこからともなく「空から降りてきた救援者」が、問題を解決してしまう。これは意地悪く見れば、「文明化されてない人々」の元に、どこからともなく「大英帝国」の船がやってきて、統治者として人々を教化する(といいつつ、実際は酷い扱いをするわけですが)事と、対対象となってますね。

無論、『サンダーバード』トレーシー一家の「善意」にささえられ、困っている人々を助けた後は颯爽と去っていく。

とはいえ、「善意」に支えられているものの、どこか「エリート主義」の臭いがつきまとっている気がしないでもないです。まぁ、所詮は子供向け番組なんだから、純粋に楽しめばいいのですけどね(笑)。

話しを戻します。どちらにしろ、「エリートから与えられる『開放』」はろくな事がない事は、大戦前の列強諸国の振る舞いを含め、数え始めればキリがないでしょう。一つ指摘しておくべきかもしれないことは、先の「完全な人間」があり得ない。、「エリート」といえども「完全な人間」ではあり得ない事です。

 このように、アナキストは、人民大衆の能力の欠如を理由としたアナーキー反対論は、本質的に自己矛盾である(あからさまな独善ではないとしても)、と断固として確信している。民衆がアナキズムにとってあまりにもバカだとすれば、人が言及したいと思っているいかなるシステムにとってもバカ過ぎることになる。究極的に、アナキストは、こうした観点は、生物種としての人間性と歴史を誠実に分析したのではなく、分析単に、ヒエラルキー社会が創り出した奴隷メンタリティを映し出しているに過ぎない、と主張するのである。 

「民衆がアナキズムにとってあまりにもバカだとすれば、人が言及したいと思っているいかなるシステムにとってもバカ過ぎることになる。」まさにその通りですね。まぁ、このように指摘したとしても、昔、「ノミの心臓に鮫の脳みそ」と揶揄された人が「無党派層は、選挙の時には寝ていてくれ」と言ったのと同じ意味で、開き直って「バカな方がやりやすい」と言うかも知れませんが(笑)。

さて、長かったセクションA.2 も次回で最後です。でも、それで終わりではありません(笑)。まだまだ先は長いや(遠い目で「なんでこんなバカなこと始めたんだろう」とちょっと後悔するSa-Q(笑))。


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