日々の偏ったニュースに思うこと

「科学」の公共性

科学とオカルト』 池田 清彦著 講談社学術文庫 ISBN-13: 978-4061598027 (2007/1/11)


■本書の解説を書いてる養老孟司氏の『バカの壁』を読んだとき、「何を今更、当たり前のことを」と感じた。だが、よくよく振り返ってみれば、自分自身の「バカの壁」に何度も何度も、突き当たっていることに思い至り、「当たり前」であることがいかに難しいか、ようやく自覚するようになってきた。

■本書『科学とオカルト』の読了直後にも、「何を今更、当たり前のことを」と感じた。何しろ、解説中に養老氏までもが「(本書に書かれているのは)当たり前のこと」だと書いている。これは、少し慎重になった方が良いかもしれない。

■題名こそ「刺激的」なものの、「オカルト批判/擁護」にも「科学批判/擁護」にも偏らず、むしろ現代科学が依って立つところの“公共性”と、欲望として持つ“普遍化・一般化”の二つを分析軸としている。
そこから、「(現在も)オカルトが存在するのは論理的必然」、「科学はその“閉じた普遍性”により、社会全体の公共性から解離しがち」等の主張が、平易で読みやすい言葉と「大文字版」の読みやすい装丁故に、説得力を持って展開されている。

■これだけを取り出せば、一見、過激な主張に見えるかも知れない。しかしそれが、よくよく考えてみれば「バカの壁」なのだと分かる。

■前半は
オカルト:公共性を持たない信念体系
 科学 :多少とも公共性を持つ理論体系

と取り敢えず定義した上で、(教会が公共性を独占する故に)“公共性”を持ち得なかった「オカルト」が、「大衆化」する中で制度化され、「再現可能性」と「客観」によって“公共性”を獲得し、「科学」が生成されていく課程を鮮やかに描き出す。つまり「科学はオカルトの嫡子」という主張。

■ところが皮肉なことに、「公共性」を得て大衆化が進むに連れて「科学」はより「客観性」を要求されるが故に数学を初め、「(大部分の大衆から見て)独自で分かりにくい言語」で記述せざるを得なくなり、細分化し、「科学」の全体を見通すどころか、近接した分野のことさえ、科学者達にとっても見通すことが困難となってくる。

■この流れには、「既視感(デジャビュ)」を感じる。そう、『UFOとポストモダン』で語られた「(技術と未来を素朴に信じられた)UFO神話の時代」、「(核や化学物質等、技術と未来に疑念を抱く)後期UFO神話の時代」、そして全てが微細化し、虚空に溶解していく「ポスト・UFO神話の時代」への流れ。あるいは「データベース化」でもいいし、「脳化」でも「郊外化」でも、「動物化」でもいい。「ブルータス!お前もか!」ではないが、一般には今でも素朴に信じられている感のある「科学」の変遷にも現れている。
そのようにここまで平易かつ精密に物語られたものは、狭い私見ではあるものの、初めて目にとまったもので、やはりそうだったかと納得が行く。

■後半への中継ぎとして「科学」が取り扱い得るものの範囲をおさらいしている。
「科学」で明らかにされるものは「原因・結果」ではなく、一般化、普遍化が可能な「(事象同士の)対応関係」を記述するもである。これもよくよく考えてみれば「当たり前」のことに感じられる。
しかし、「原因・結果」という「バカの壁」は、実は科学を生業とする学者・研究者でも陥りやすい誤謬であり、実例も多く挙げられている。良くあるパターンとしては「科学は“万能”であり、“原因”を遡って(演繹的に)そこから“結果”を求めていけば、いつかは全ての“謎”を解き明かす」式の信念体系であろう。私自身にも幾つか心当たりがあり、少し考えさせられた。

■後半では、主に「心の科学」と「オカルト」、そして「カルト」との関係を説く。
その公共性故に「一般化・普遍化」不可能な「“私”個人」にまつわる諸々は、「科学」では扱えない事が多い。例えば「“かけがえのない私”の“かけがえのなさ”」を説明すること。

■そして、またも皮肉なことに、「大衆化」によって大きく領域を簒奪された「オカルト」が、「科学」で扱い得ない領域を担うこととなる。その課程で、例えば「かけがのない私」を求めるあまりに「オカルト」が原理主義化したところに、「カルト」は生成される。

■上記の課程を踏まえて見直してみれば、まさに著者が主張するように「現代オカルトは現代科学の鏡像」と言えよう。現代の「科学」と「オカルト」、二者で共通するのは「原理への欲望」と「コントロール願望」ではなかろうか。

■これは本書の主張ではなく、あくまで私見であるが、本来なら「かけがえのない私」の「かけがえのなさ」を担保し、安堵するのは、社会システム論的に言えば、「社会システム」のサブシステムとしての「宗教」の役割であり、この面からも、同じくサブシステムとしての「科学」では扱い得ないことは理解できると思われる。ところが、現代日本では特に、「宗教サブシステム」が機能不全を起こしている故に、「オカルト」が原理主義化した「カルト」が猛威を振るうことになる。

■本書を読んで、著者は「宗教」には殆ど触れていないが、これは「科学批判」でも「オカルト批判」でもなく、実は「宗教批判」の書、と読めないだろうか。そんなことを感じた。


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コメント 1 件

Sa-Q より:

……というわけで、予告した「伏線」は活かせませんでした :lol:
いへ、「科学」からはみ出して「オカルト」へ向かうモノの例として「自分の死」を入れても良かったんですけど。本書での例が「自分探し」だったし、コッチの方が当 Blog の流れに沿ってるし :-?

ちなみに、著者さんが(キリスト教会が“公共性”を独占する故に「オカルト」は“公共性”を持ち得なかった、という説を除いて)あんまし「宗教」に触れないのは、たぶん、ご本人が「宗教」無しでやっていける人だから、なんだと思っています。

根拠は「存在するものにいちいち理由などないと私は思うけれども」と述べてらっしゃることです。

後、本当に読了後すぐ、というか読んでる時点で思ったのは「『系統樹思考の世界』の前に読んどきゃ良かった」でした :lol:
チョッと、「『物語(narrative)』としての説明」をナイーブに受け止めすぎ、だったかも。

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